ヒルズ黙示録・最終章(朝日新書)~大鶴基成という人物~ 引用
ヒルズ黙示録・最終章~大鶴基成という人物~ 引用
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P164以下
証人としての出廷を求められた特捜部長の大鶴は、
ライブドア事件の以前に自身が特捜部の副部長として捜査に携わった
日歯連事件でも、
後ろめたいことがありそうな人間を
重要証人に仕立て、狙った獲物を打つ、という戦法を使ったことがある。
この時特捜部は、自民党橋本派の派閥事務局長の証言を頼りに
元官房長官の村岡兼造を在宅起訴したが、村岡は
「派閥事務局長のいい加減な供述を鵜呑みにして十分な捜査を
していない」と
特捜部を非難している。
村岡は、この派閥事務局長が東京・赤坂を連日豪遊していた点を指摘し、
「派閥の金を業務上横領しなければできない
ことと思う。
その証拠を検察官は握り、事務局長は
ありもしない話を供述し、
検察官と司法取引したのではないか」
と推測していた。
大鶴はこの事件で、みずから村岡を取り調べている。
大鶴の元上司だった高検検事長経験者は、
大鶴の取り調べ方を何度もたしなめたが、
改まらなかったことを打ち明けた。
「自分の内面の弱さを隠すために、
権力を笠に着て取り調べる。
本人に面と向かって、そういうやり方は
やめなさい。といったのだが、
治らなかった。
彼は事件を作ってしまうんだ。」
大鶴は、大分県佐伯氏で1955年3月に生まれた。質実剛健と
教育熱心な
風土のせいか、両親は大鶴の教育にとても熱を入れた。実家のそばには、
経団連会長になったキャノンに御手洗富士夫が出た郷土の名門校、
佐伯鶴城高校があるが、大鶴は、中学受験で合格した鹿児島ラ・サールへ進学。小学校を出るとともに
鹿児島の母の成果に下宿し、親元から離れて中学・高校の6年間、
東大進学を目指す日々が始まった。
高校1年の時に席が隣だった同級生の証言。
「大鶴みたいなタイプは東京にはいないね。ああいう、
ひたすらコツコツ
勉強するタイプは当時でもかなり珍しかったんですよ。
九州のような田舎じゃないと発見できないような、
そんな珍しい人でした。
冗談も言わないし、自分の実家や生まれがどうだとか、
そういうプライベートなことも一切言わない。
まじめ一筋で、いわゆる友達づきあいは全然なかったね。」
今は中央省庁に勤める別の元同級生はこういう。
「とにかく真っすぐな一直線な人。授業が終わると、ずっと自習。
まあ、ラ・サールはみんなそうでしたけど、大鶴は中でも
勉強一直線だった。
それと少しも隙を見せない人でしたね。とにかく隙がない人、
という印象でした。」
そんな大鶴は高校時代から謙治になることを夢見ていたらしい。
おそらく、1974年の田中金脈問題や1976年に発覚した
ロッキード事件が、大鶴の進路希望にすかなからぬ影響を与えたと
思われる。
大鶴の進路を聞いて周囲からは
「あのおとなしい男が検事になりたいのかとびっくりした
(今は弁護士の東大同級生)といった感想が漏れていた。
だが、司法試験に合格した大鶴は司法修習生を終えた1980年4月、
念願の東京地検の検事に任官した。
翌1981年に福岡地検、1983年に大阪地検、
1985年に釧路地検と歩んだ大鶴の検事としての初期の履歴は、
実は、あまり恵まれたコースを歩んでいたとは言い難い。
「このまま地方回りで終わるのではないか?」と危惧する声も上司からは上がっていた。
1987年3月、大津留は釧路地検から水戸地検へ転任している。
大鶴の上司だった釧路地検の検事正は、大鶴を東京地検に移動できるよう懇請したが、東京に枠はなく、東京周辺の水戸に移ることに
なったのだった。
その後1989年には大分地検の三席検事になり、
3年間を故郷の九州・大分で過ごしている。
検事になって十余年、
同期には法務省本省のエリートコースに乗ったり、海外大使館勤務を
したりする者があらわれていた。
そんな大鶴にとって転機となったのが、
1992年4月の東京地検特捜部への移動だった。
13年目でやっと東京勤務、しかも検事になったものが
「必ず一度は行ってみたい」とあこがれるという特捜部である。
この年の2月、東京地検特捜部は佐川急便事件の強制捜査に着手し、
紆余曲折の末、翌1993年に脱税の疑いで自民党の実力者金丸信が
逮捕されるゼネコン汚職へと広がっていった。
大鶴と一緒にゼネコン汚職で特捜検事として働いた元同僚は
「大鶴は、あらかじめ決められたストーリーに
沿って、
「こういう供述を取ってこい」と言われると、
必ずやり遂げる男だった」
と指摘する。
証拠に基づいて捜査が行われていると
一般に広く信じられている特捜部の捜査だが、
実態は、あらかじめ「筋読み」された
ストーリーに沿って、証拠や供述がパズルの
ように組み立てられている。
こうした想定されたストーリーに沿うような
調書を取ってくることが
「大鶴は得意だった」と、多くの元上司や元同僚は指摘している。
大鶴は、ゼネコン汚職の捜査の際に担当した
自民党有力政治家の梶山静六ルートで、
そうした見込み捜査の失敗を犯したことも
ある。
大鶴が受け持ったゼネコンの元幹部から梶山に現金が渡されたという
内容の調書が取られ、
それを元に東京地検特捜部は梶山の議員会館の面会票まで調べた。
だが、実は梶山に金はわたっておらず、ゼネコンの元幹部が個人的に
着服していたのだった。
法相まで務めた梶山に対する捜査にしては、
あまりに荒っぽい調書だった。
当時の同僚は
「大鶴は手柄を焦ったのではないか?
彼の取り調べ室からはいつも
ものすごい怒鳴り声が漏れていた」と
打ち明けた。
大鶴が特捜部長に就いた05年春、検察内には検事総長の松尾邦弘の
「トップをとれ」という方針が広がっていた。
ロッキード事件を担当し、田中角栄を捕らえた自身の成功体験によるものなのか、UFJ検査忌避事件、三菱自動車の欠陥自動車事件ともに、
捜査現場は
「トップを取れ」圧力にさらされた。
「自分では証拠も見ていないのに、こうしろ、とか、トップを取れ、
と指示するから、めちゃくちゃになる。」
欠陥車事件で三菱側の弁護を務める元特捜検事の弁護士は、
そう指摘した。
まじめ一筋で、「事件を作る」大鶴は、そうした「トップを取れ」路線に影響されたのではなかったか?
初めから結論ありきの捜査はどうしても乱暴になる。
ライブドア元取締役の岡本文人は法廷で自身の供述書が供述した通りの
内容ではなかったことを明らかにした。
やはり元取締役の熊谷史人も法廷で取調べの様子をこう証言した。
「拘置所での取り調べが始まって2,3日後、
「私は認識していなかった」と言ったら、
検事から
「おまえは堀江派なのか!!」と
数日間叱責された。
怒鳴られて、
「取り調べ室を出て行け!」と言われ、
出ていくと呼び戻された。
「わかっているな、堀江と同じで
一生保釈されないぞ!」と
脅されました」
歪曲した岡本調書を作り、熊谷に、「一生保釈をしない」と言ったのは
吉開多一検事だった。
結局、熊谷は保釈されないと言われたことに動揺し、不本意ながら
調書にサインしている。
「違いますと言ったら、「そんなの通らねーよ!」と怒鳴りつけられた。
突っ張ったら、お前は帰れ!と言われました。
一生保釈されないと脅されたことが怖かった。」
と、熊谷は取調べの模様を振り返る。
関東軍
ライブドア事件と村上ファンド事件を指揮した東京地検特捜部長の
大鶴基成は「トップを取れ」という方針に忠実に従い、
堀江と村上という二人のトップを取ることに成功した。
事前に決まった方針を、彼は黙々と実行した。
「事件を作ってでも、結果を出そうとする」
(大鶴の元上司だった元高検検事長)という
彼の姿勢は、
松尾検察の路線に完璧に合致していた。
~中略~
あらかじめ内定した段階で筋を作り、
強制捜査突入後は、その筋に合致した
証拠と供述で無理やりこじつけるという、
東京地検特捜部の
捜査手法の限界の表れなのだ。
今の特捜部は、いわば特捜検察のいきついた終着点であり、
また、完成形である。
ライブドア事件のさなかに、特捜部副部長の北島孝久http://bit.ly/6D0bwaが更迭された上、
退職したのは、特捜検察の終着点になじめなかったためとみられている。
北島は、ゼネコン汚職の際に当時の自民党の実力者、金丸信の次男を
取り調べ、隠匿資産があることを突き止めたことで知られる。
しかし
「飲み過ぎだった」「マスコミの記者と親しかった」
「上司にも平気で反論する姿勢を煙たがるものが多かった」と言われ、
武闘派的なアクの強さを敬遠する統制派の大鶴との間に隙間風が
吹いていた。
北島が研修に出かけ、不在だった1月16日、ライブドアへの
強制捜査が着手されている。
捜査は北島抜きで始まった。完全に外されていたとしか思えない。
検察上層部は、癖のある問題児、北島を切り、上司受けがいい大鶴を
選んだ、ということである。
そんな決着に、二人を部下とした元検察幹部は
「今の検察の意思が反映している。」とみる。
司法制度改革が進み、弁護士の数は今後飛躍的に増え、裁判所も
裁判員制度など従来になかった仕組みを採用する。
弁護士そして裁判所が
大きく変わろうとする中、
現代に取り残されたままなのが、検察庁だ。
選挙違反や贈収賄で脛に傷を持つ政治家は、触らぬ神にたたりなし、と
手をつけない。
談合や粉飾が横行している経済界も何も言わない。ネタもらいに
汲々とするジャーナリズムはめったに批判しない。
それどころか、戦時の従軍記者のように、過剰に戦果を書き立てる。
批判がない組織は、自制がきかない。
霞が関のアンタッチャブル、東京地検特捜部は
まるで現代の
「関東軍」のようだった。
いったん暴走するとだれも止められず、
しかも誰も責任を取らなかった。
検察を抑制する仕組みが不在なのは問題だ。
特に検察官個人の責任が追及されることは
ほとんどない。
わずかに、検察庁方には、検察官適格審査会が職務上非能率で
職務に適しない検察官を審査し、法務大臣に通知することが
盛り込まれているが、ほとんど機能していない。
弁護士が劇的に増え、法律が今まで以上に経済活動や市民生活に
入り込む「法化する社会」の到来を前に、
検察の抜本的な改革は避けて通れないだろう。
大鶴にとって誤算だったのは、検察OBの堀江弁護団が以外に
手ごわかったことだ。
堀江の弁護人の高井康行弁護士は一貫して捜査畑を歩み、
東京高検検事を最後に
1997年から弁護士に転じている。
検察側が開示した証拠から、不自然なカネの流れがあることを
かぎ取り、やがて宮内の横領背任疑惑に切り込んでいった。
上司受けが良く、出世志向の強い大鶴と、
かなりプライドの高い捜査畑出身の高井とでは、水と油だ。
高井は言う。
「大きな悪を摘発するために小さな悪を見逃すのならば、
捜査手法としてはありうると思う。
しかし、今回は証券取引法違反よりも大きな横領や背任といった
犯罪を意図的に見逃しているとしか思えない。
大鶴特捜部長は、そういう正義にもとる手法を取っている」
正義を独占してきた検察は、確実に蝕まれている。
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