« 今日の日刊ゲンダイ 【原口一博 3歩で忘れるあの男との仲 若手もア然】~@Shinjukudaisyさんつぶやき編集 | トップページ | 竹野内真理氏の謝罪は受け入れない。3つの条件を満たせば考える »

2012年10月 1日 (月)

かごしまんま@kagoshimammaの原点・父の最期の日々~@rieseaさんつぶやき編集

眠れない。目を瞑ると父の最期の日々ばかり浮かび上がる。

ちょっとだけ父の日々をつぶやかせてください。

311以降、私は避難か仕事かで精神的に揺れていた。

父と夫はすぐにでも

避難していい、と言ってくれていたのに。

父は東京消防庁を定年退職して、

故郷の鹿児島に6年前に移住していた。

私は避難移住の決心がつかなかった。

3月末には仕事でモントリオール出張も決まっていたし、

4月にはサイパン旅行も計画していたので、

それら二つを捨てる事ができないのも原因だった。

特に4月のサイパンは父がどうしても戦争の跡を見に行きたいと

願っていて、父のための家族旅行だった。

でも、チェルノブイリ事故を

考えると

311以降は洗濯物や布団を

一切外に出さず、

子供達も幼稚園以外は

外に出る事を

極力避けさせ続けた。

いつも土日に行くのは

屋内遊園地だった。

平日は生活クラブと

パルシステムと

オイシックスから

西のものを探す事に

時間を裂いた。

印西から車で往復2時間かけて

佐倉市のOKストアまで通った。

そして運転しながら

不安と情けなさでよく涙が出た

そういう毎日だった。

サイパンから1ヶ月後の健康診断で、父が引っかかった。

精密検査を繰り返した。膵臓がんだった

医者は父に「娘さんがいるのなら言った方がいい」と告げた。

でもチチと母は1ヶ月以上も私に言えないでいた。

言えるわけがない。

鹿児島に住む彼らが千葉に家族と暮らす私に。

でも1ヶ月後の診察時に再び父に医者は言った。

「娘さんには言ったのか?」と。 

それまで仲良く明るく暮らしてきた父と母は健康診断で

引っかかってから私に言うまでの1ヶ月以上、

一切会話も笑顔もなく淡々と庭や畑をいじって過ごしていた。

そして7月のある晩に私の携帯が鳴った。

もう今となっては電話の向こう側が

母だったか父だったか覚えていない。

ただ一言、

「お父さん、膵臓がんなんだって。肺にも転移しているんだって」

その時受けた衝撃をどう表していいのかわからない。

ただ、ネットでどこをどう調べても

転移した膵臓がん患者の

1年生存率は10%以下だった。

悩みに悩みながら毎日を過ごした。 

私はひとりっ子で、ほぼ人生全てが反抗期、

なのに親のスネだけはかじりまくるという最悪な娘だった。

親孝行なんてひとつもしていなかった。

このまま父を逝かせるわけにはいかなかった。

そんな悶々とした

日々の中、

木下黄太さんの

印西講演会に

参加した。

そして移住を

決意できた。

夫に打ち明けると

「行って来ていいよ。俺は仕事があるから一緒に移住は

今すぐできないけど」と言ってくれた。

私は両親の家に子供達と避難し、

父を鹿児島の家で看取る事を決めた。

とはいっても父もまだ自覚症状も少なく、

元気で頑固な親父そのもの。母ももちろん元気だ。

そして10年以上も一緒に暮らしていない者同士、

プラス小さな子供達。 

毎日ちょっとのことで揉めたり喧嘩したり、

お互いの生活リズムを擦り合わせるのが大変だった。

父の貴重な時間はどんどん過ぎていった。

お正月は父は食欲もあり、おせち料理も楽しめた。

5日には霧島神宮に初詣に行った。父は大河(2)を抱っこして

階段を降りてくれた。

その次の日、父はあまりの吐き気に嘔吐した。

それからは痛み止めや吐き気止めなど薬の量が

どんどん増えていった。

父の体調も坂を転げるように悪くなっていった。

213日。とうとう入院した。

でも14日に千葉から私の夫が来るからと、

頑張って退院した。

その時、医者に最後の旅行に指宿に家族みんなで行ってくることを

母は告げた。医者も何回もうなずいてくれた。

そして緊急時の対応を教えてくれた。

214日、千葉から来た夫と病院から退院した父のために、

母と私と子供達でチョコレートを渡した。

吐き気で、チョコなんかもう一口も

食べられないとわかっていたけれど。

父はとても嬉しそうに「ありがとう」と子供達に言っていた。

21516日。父と母、そして千葉から来た夫と子供達とで

指宿に旅行に行った。父が「指宿に開聞岳を見に行きたい」と

言ったから。

砂風呂にもみんなで入ったし、動物園にも行った。

父は公園の遊具で遊び、

滑り台を滑り、子供のように

はしゃいだ。

それは全て最後だと

みんな、わかっていた。

だから父の遺影は開聞岳をバックに笑っている。

あの時のはしゃいでいた父の笑顔。

母と自分にお揃いの箸を買ったり、

焼酎を入れる鹿児島独特のとっくりのような急須のような入れ物を

買った。

私も母も父のひとつひとつの行動を、

泣くのを必死でこらえて笑顔で見ていた。

217日。父は鹿児島市の水族館と動物園両方に行きたいと

言った。

両方は無理だから水族館と霧島の温泉に行った。

もう父は大河を抱っこできなくなってしまっていた。

ただ、この日の吐き気は奇跡的になく、

お昼にはラーメンを1杯食べる事ができた。

それが父にとって最後のラーメンだった。

移住してから

私は会社の立ち上げもしていた。

千葉で買い物に

苦しんできたので、

もう放射能を防御しようとする

ママさんが

買い物に苦しまなくていい

お店をつくりたかった。

毎日一生懸命銀行へ行ったり

営業したりしていた。

父の看病は全て母がやっていた。

そんな私に父と母はいつも申し訳なさそうに

時に病院へ連れて行ってくれる?」と頼んだ。 

私はそういう両親の姿を見る度に、心の中で一体自分は何のために

鹿児島に来たのだろう?仕事が優先になっているではないか、

父のサポートが優先だったはずなのにと思い、悩んだ。

3月中旬。かごしまんまの最初の発送日だった。

たしか5セットだったと思う。

もう父は庭に出るのもやっとだった。

でも庭の事務所まで歩いてきて、

5個の段ボールに入った野菜セットを見て嬉しそうに言った。

「よかったね。喜んでもらえると

いいね。

安心してもらえるといいね」と。

父がかごしまんまの野菜セットを見たのは

それが最初で最後だった。

私は父に見せる事ができて本当に嬉しかった。

間に合ってよかったと思った。その最初の5人のお客様に

心の底から感謝した。

その後、父は庭に歩いて出てくることはなかった。

41日。父は痛みが酷く入院していた。

その頃、まだ母は最後の最期は病院を希望していた。

家で看取る勇気が出なかった。

母は「万が一の時にどうするの!」と感情的になった。

私は「父の万が一の時にはもう誰も何にもできないよ。

病院の天井より家の天井や景色を見せて逝かせてあげようよ」と

説得した

母は病院のベッドに横たわる父に聞いた、

「お父さん、家に帰りたい?」と。父は病院のカーテンを指して

「この黄色いカーテンが嫌だ」とだけ言った。

母もそこで決心がついた。家で看取ることになった。

46日。病院から移動ベッドで父が家に帰って来た。

父は家に入る前に庭を見たがり、ベッドで庭をぐるりと一周した。

設置したばかりのかごしまんまのプレハブ冷蔵庫を見て

目を細めて頷いてくれた。

なにより、

大好きだった庭の花や畑の作物を食い入るように見ていた。

47日。大河(下の子供)2歳の誕生日だった。

父に代わってプレゼントを買ってきてあったものを父に渡し、

ベッドに横たわる父が大河に誕生日プレゼントを渡した。

父の目から涙がこぼれては流れていった。

私も母も涙を隠して無理して笑った。 

娘は「なんでみんな泣いているの?誕生日なのに」。

最後の1ヶ月は、父は一晩中痛みと戦う毎日だった。

母も12時間おきに投与しなければならない数々のモルヒネや

痛み止めのためにほとんど寝れない毎日だった。

私はといえば、父のサポートのために鹿児島に来たはずなのに、

昼間は仕事に追われ、夜は子供達の世話で精一杯だった。

いや、精一杯でなく、逃げていたのだ。

薬も着替えも汚物もみんなみんな母がやった。

そして母も父のことは全てやりたいし、

自分がやらないとダメだ、という心理状況だった。

みんなギリギリだったと思う。

49日。千葉に住む夫が電話してきた。

「今日、きちんと会社に鹿児島への転勤願を出したよ。

まぁ、1年とかはかかるだろうけどね」と。

私はそれを父にすぐ報告した。

父はもう言葉を出すのもしんどいようで右手で

OKのサインを出しながら頷いていた。 そしてその1時間後。

父の息遣いが普段と違い、荒くなっていったので、

看護婦さんを呼んだ。

そして半ば半狂乱で私は夫に電話した

「今すぐ鹿児島に来て!」と。

鹿児島に転勤願を上司に告げた夫はその1時間後には

今すぐの鹿児島行きを上司に申し出ていた。

そんな中、母は所用で出かけていた。

父は振り絞るように「お母さんまだか?」と私に言った。

私はもう少しだと伝えた。すると父はベッドを起こせと言った。

ベッドを起こしてあげると西側の窓から

庭の畑を食い入るように眺め、

そしてまたベッドを横にさせた。父が見る最後の庭の景色だった。

母がすぐに帰ってきた。私は交代して父のそばから離れた。

そして台所に向かったその瞬間、母が叫んだ

「りえちゃん来て!!お父さんがっ!」。

私は廊下を走った。そして父の頭を抱いた。

父は最後の大きな息のような口を2回開いて

そして逝ってしまった。

私は叫んだ。

「お父さんダメだ、逝っちゃいけない!

まだありがとうを伝えてないよ!

ありがとうを言えてないじゃん!」

父の為に鹿児島に来たはずなのに、私は何にもできず、

父を逝かせてしまった。 

感謝の気持ちも言葉にすることもなく逝かせてしまった。

以上、長いつぶやきに

付き合ってくださってありがとうございました。

そしてすみませんでした。 もう寝なくちゃいけないです。 

おやすみなさい。

編集者のつぶやき

このつぶやきをまとめながら、

涙がぼろぼろあふれてしまったことを

告白せざるを得ない。

りえさんはエネルギーに満ちあふれた明るい人です。

避難ママの一人として、

避難されている母親の気持ちがよくわかる人です。

どうか、応援してあげてくだされ。

ワシからも どうかよろしくお願いいたしまする <(_ _)>

« 今日の日刊ゲンダイ 【原口一博 3歩で忘れるあの男との仲 若手もア然】~@Shinjukudaisyさんつぶやき編集 | トップページ | 竹野内真理氏の謝罪は受け入れない。3つの条件を満たせば考える »

無料ブログはココログ